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市原稲荷神社

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御朱印 - 市原稲荷神社
由緒:
今日、大なり小なり稲荷神社と称する神を祭った社をもたない地方は少なく、お稲荷さんとして周辺の村々からも尊崇されたお宮は、稲荷神による信仰です。稲荷信仰は田の神の信仰であって、春の耕作のはじめこの神を迎え、秋の収穫の終わりに、この神を送るという思想から、山の神が春に下って田の神となり、秋には山に戻って山の神となるという信仰を生むに至っています。

市原稲荷神社の祭神は、 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ) の三柱で、「市原稲荷の大神」と奉称しています。
三神ともに太古よりの神々で、天にあっては巽(たつみ)(南東)の方角を司り、庶民にあまねく福を授け、厄いを祓(はら)い、地に在りては人の衣食住を守り、農業・商業・工業の繁栄を導き、生成化育・発展充実を理想とされるご神徳をお持ちの神です。

■ 創建
鎮守のお宮として人びとの崇敬を得てきた市原稲荷神社は、いつ頃創建されたのでしょうか。 市原稲荷神社には古老が伝えたひとつの伝説があります。
むかし海中いずこからともなく、ご神体が浮かんで磯に寄り移りました。
時に市原の島に住んでいた白狐が、このご神体をくわえて陸に上がりました。この地は「お茶屋」と呼ばれる地でした。 そこで村びとは社を建て、これをご神体としてまつりました。これが稲荷大明神であるといいます。 これは「海寄り神」の伝説といって、海沿いの村にはあちこちに見られる伝説です。

「市原神社鎮座記」によると、第36代孝徳天皇の白雉(はくち)4年(653)に、亀狭山(現:亀城公園)の地に神殿を創立したのが始まりといいます。だから「お茶屋」の地に鎮座されていた社を亀狭山に移しまつったことになります。のち水野忠政が亀狭山に刈谷城を築いたのち、社を城のすみに移しまつり、神馬などを奉り手厚く武運隆昌(戦に勝って大いに栄えること)の祈願所としました。

明暦4年(1658.=万治元年)、稲垣重昭(しげあき)の代に社殿の造営がありました。この時の建物の梁に、下図のように記されています。

これによると、市原稲荷神社が新しい社殿に神霊を移されたのが明暦4年すなわち年号の変わった万治元年ですが、これよりまえ明暦元年に社領を寄附していたことになります。そしてこれは、刈谷藩初代の藩主水野日向守勝成の代から、社領五石が代々寄附されるのが例であったのです。

建物の梁に遷宮導師として金胎寺祐玄とありますが、金胎寺は刈谷城の北側に堀をへだててあった寺で、神仏分離以前でしたから金胎寺の祐玄が導師の役を務めたのです。そして信濃守重昭が自ら棟梁として下役二人が従っています。 重昭は慶安4年(1651)刈谷城主となった稲垣重綱の孫に当たり、二万石を自分の領土としました。 稲垣氏は重富まで三代にわたって刈谷藩主でした。小嶋氏は代々市原稲荷神社の神主を務めています。
こののち宝暦9年(1759)の調べによると、「市原稲荷大明神、古来より勧請年号

知れず」として、「御小社、横三尺五寸四方、高三尺三寸。廊下、横行二間、奥行三間」とあります。このように、神社普請などは領主の手によるものであって、いずれも国が平和で人々が穏やかに暮らせることを願い、戦に勝ち子孫が繁栄することを祈って神の権威に基づき奉仕するものでした。 明治維新後は郷社として郷村が神社の維持に当たるようになりました。明治6年(1873)の「刈谷町鎮座神社調」によると、 「宮殿堅三間半・横三間、渡り殿堅二間半・横二間、拝殿堅三間半・横四間」と拡大しています。




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