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忌部神社

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御朱印 - 忌部神社
由緒:
『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている。

社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられていた(『新抄格勅符抄』)ので、朝廷からも尊崇されたたようであるが、詳しいことは不明である。社記によると中世には、文治元年(1185年)に河野通信が長光の太刀を奉納し、屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納、翌々文治3年田口成良が源頼朝の命で板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を割いて御供料として寄進したと、武士からの崇敬を伝える。また、『山崎斎部神社之記』なる社記によると、応永年間(1394-1428年)に地震によって現在地へ崩落し、現在地にあった王子権現の傍らに小祠として祀られるようになったという。以後、永禄3年(1560年)管領細川讃岐守(真之か)が御供料田畑を安堵すると、三好長治もこれを襲ったが、長宗我部元親によって廃止され、兵乱による荒廃もあって衰退していき、藩政期になるとその所在すら不明となるに至った(一説に徳島藩主蜂須賀氏が、社領復旧を阻むためにあえて復興しなかったという)。また、享保12年(1727年)には種穂神社(吉野川市山川町川田忌部山の種穂山山頂)の早雲民部という神職が、当社神職村雲勝太夫を放逐して横領し、元文年間(1736-41年)には同神社に忌部神を併祭するようになり、その子である式部が争論を怖れて当神社を焼き払ったが、旧山崎村(現 山川町北東部1帯)村民の請願により、寛政13年(1801年)に早雲式部を罷免し、村雲勝太夫の孫娘に養子をとり、神職を継がしめたという。

明治3年(1870年)村社に列したが、上述のように近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者小杉榲邨の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、五所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の現忌部神社である。

平成2年(1990年)の大嘗祭では、徳島で栽培された麻から当神社境内で織った麁服(あらたえ)が、徳島市の忌部神社の宮司を斎主として神事が行われた上で、調進された。また令和元年(2019年)の大嘗祭においても、美馬市木屋平で栽培した麻を境内で麁服に織り上げ、調進している。




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